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映画『マッドマックス』のジョージ・ミラー監督、 映画製作への原動力を語る

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映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の監督で、オーストラリア出身の映画製作者ジョージ・ミラーは、セーブ・ワトソンズ・ベイの活動を含むミラー監督の功績を称える、エンヴァイロメンタル・メディア・アワード(EMA-環境保護に貢献した映画やテレビ作品・人物を表彰するアワード)を受賞するため一時的にロサンゼルスに滞在した。ミラー監督は、映画人生の初期において創作に影響を与えたものを本紙ヴァラエティに語ってくれた。

もっと見る:各賞の候補者たち(英文)

初期の映画体験はどのようなものでしたか?

私は、土曜日のマチネ(昼公演)の影響を多大に受けた。私が育った町の慣習的なものだった。A編とB編があり、もし映画『ベン・ハー』のようなとても大きなテクニカラー・シネマスコープ(カラー映画制作の一方式で映画を大型スクリーンに映写するもの)だったら、休憩時間のある1本の映画だったはずだ。加えて、漫画、ニュース映画、『バットマン』や『Sir Galahad(原題)』のような10分シリーズもあった。4000〜5000人が暮らすチンチラの街には、比較的新しい映画館があった。

その映画館には座席が1000席あった。インターネットも携帯電話もなく、オーストラリアではテレビの普及が遅かった。だから映画鑑賞は一般的な慣習で、映画館は宗教色がない大聖堂のようなものだった。そこで映画を観るのは、私にとって偶然の修行だった。

もっと見る:ジョージ・ミラーが映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の撮影チームに敬意を表す(英文)

映画製作者になりたかったのですか?

私は、自分で映画を作れるとは一切思っていなかった。そのような機会はなかった。双子の兄弟であるジョンと私は医学学校に通っていた。ある日、私は女性の脚が写し出された映画ポスターが貼られた映画館の横を通り過ぎた。ポスターの女性の上半身は、指でピースサインを表しているものだった。ふむ、と思い、私は劇場に入った。上映作品は、ロバート・アルトマン監督の1970年の映画『M★A★S★H マッシュ』だった。私はアルトマン監督についても、この映画についても何も知らなかった。映画が終わった後、劇場を出てすぐに次回の上映作品を観るためのチケットを買った。映画のチケットを買うことはとても大変なことだった。2回分も買うなんてなおさらだ。私は医学学校生でそれほどお金を持っていなかったからだ。再度映画を観終わって映画館を出た時にはとても興奮していた。私は、アートハウス(単館)を通り過ぎてチケットを買った。そこで上映されている映画すべてを観かったからだ。そして上映作品は、映画『アルジェの戦い』だった!

私はその日以降、映画によって動かされた。とても良い日だった。

そのことでゴールは変わりましたか?

その日を境に、私は、「映画の専門的な言葉を理解しなければ」と思った。ハロルド・ロイド(米コメディアンでサイレント映画の大スター)の作品や映画『The General(原題)』のようなサイレント映画を観た。この新しい“言語”だ!それは世界共通言語で、その構文は音声なしに開発されていた。だから私は、それぞれの映画をサイレント映画として想像している。そして、サイレント映画に音声や音楽を加えた時、さらにどれだけのものが加わったのかが分かる。

バイロン・ケネディと私は、風刺に富んだ短編映画『Violence in Cinema, Part I(原題)』を作ろうと決めた。この作品はそれまでオーストラリアで流通した中で、初めての短編作品のうちのひとつだ。若気の至りで私たちは、「我々は長編映画を作るべきだ」と言った。それがシリーズ第1作にあたる1979年の映画『マッドマックス』だ。この作品を作るのはとても大変だったが、その時点で、全ての映画は作るのが大変であるということに気づいていなかった。

環境保護活動への関心を持つようになったのはいつ頃ですか?

茂みの中で育ったことからきていると思う。オーストラリア映画は景観についてがほとんどだ。オーストラリアは広々とした大陸で、サイズはアメリカ大陸だが人口はカリフォルニア州と比べるとたったの半分だ。だから、景観の中で人影があるとすぐに気がつく。そして、それが私たちの歌に、映画に、文化の中に表れている。


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