本紙ヴァラエティは、かつてスティーヴン・スピルバーグのキャリアについて「映画文法の基礎を築き、”映画の父”とも呼ばれたD・W・グリフィスと同じくらいにメディアで語られている」と紹介した。2015年になってもその意見を疑う余地はないだろうが、この見解は彼の作品がまだテレビ番組6本、テレビ映画3本、長編映画が1本だったころ、1974年10月29日に発行された号で記されたものだ。
あれから41年。トム・ハンクスを主演に迎えたスピルバーグの最新作映画『ブリッジ・オブ・スパイ』は、10月16日(現地時間)に全米公開を果たしたばかりにも関わらず、既に高い評価とオスカー有力候補としての話題を集めている。この事実は、メディアが数十年にわたり彼に心を奪われていたのは間違いではなく、まだ駆け出しの頃から何か特別なものを持っていたことは当時から明らかだったということが、あらためて立証されたということだ。
本紙ヴァラエティが初めてスピルバーグの名前を挙げたのは、彼の手掛けたショートフィルム『Amblin(原題)』がMCA(現ユニバーサル)のシドニー・J・シャインバーグの目に留まり、その作品をもとにユニバーサルがスピルバーグと主演女優パメラ・マクマイラーと独占契約を交わした1968年12月12日のことだ。
彼が最初に任された仕事のひとつは、ロッド・サーリングによって製作された映画『四次元への招待』のパイロット版の監督だった。本紙ヴァラエティで50年以上にわたってコラムを担当していたアーミー・アーチャードは、1969年2月6日号で同作の主演を務めたジョーン・クロフォードと対談をしている。初日の撮影は19時間にも及び、クロフォードはスピルバーグが当時まだ22歳であったことを思い出し、ポーカーフェイスでアーチャードにこう言った。「私がこの契約にサインしたとき、彼らは監督が23歳だと言っていたのだけど!」。
1970年、ユニバーサルはスピルバーグとの契約内容を変更し、プロデューサーとして5年間の独占契約、監督として6年間の非独占契約を交わした。
数々のテレビ番組の監督を手掛ける一方で、スピルバーグはドナルド・バーセルミの小説をもとにした『Snow White(原題)』、『Winkler(原題)』などのラブストーリー、『大空のエース/父の戦い子の戦い』など、後のスクリーン・デビューにつながるいくつかのプロジェクトを手掛けている。これらの作品はやがて他の監督が撮影を手掛けているが、スピルバーグの名前はクレジットに残っている。
1971年11月13日、テレビ映画『激突!』が誕生し、彼の人生に新たな時期を画すことになる。映画評論家のトニー・スコットは、本紙ヴァラエティのレビューの書き出しで、「映画ファンは当然ながら『激突!』を勉強し、参考にするだろう。”ABC Movies of the Week”の中でも過去最高の作品で、サスペンス・ファンにとって殿堂入りの作品だ」と述べている。スコットは、原作となる短編小説を手掛けて同作品の脚本を務めたリチャード・マシスンと、主演のデニス・ウィーヴァーについても高く評価している。
スピルバーグは映画『続・激突! カージャック』で劇場映画監督のデビューを果たし、彼の名は世間に大きく知れ渡ることになる。同作品は1974年5月にカンヌ国際映画祭で、フェデリコ・フェリーニ監督の映画『フェリーニのアマルコルド』、マーティン・スコセッシ監督の映画『ミーン・ストリート』、ロバート・アルトマン監督の映画『ボウイ&キーチ』、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、ロベール・ブレッソン、ケン・ラッセル、アラン・レネらが監督を務めた作品と並べて上映された。この年のパルム・ドール賞は、フランシス・フォード・コッポラ監督の映画『カンバセーション…盗聴…』が獲得したものの、スピルバーグの作品を共に手掛けたハル・バーウッドとマシュー・ロビンスは、脚本賞を受賞した。
『続・激突! カージャック』の興行成績は振るわないものであったが、プロデューサーのリチャード・D・ザナックとデヴィッド・ブラウンはスピルバーグと契約を交わし、1975年、後の映画史に名を残す映画『ジョーズ』を創りあげた。そこからかなり短い期間で、スピルバーグの名はD・W・グリフィスよりも多く語られることになった。