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“自分の最期を決めるランキング”一位になりたい宣言。 『最期の祈り』

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アカデミー賞が認めた「生命の終わり方、もしくは終わらせ方」

アカデミー短編ドキュメンタリー賞の作品って一体どこで観られるのだろうとずっと不思議に思っていた。もちろんアカデミー会員にはサンプルが送られてくるはずで、昨年から会員になった仲代達矢もアカデミー賞のノミネート作品を観てますとツイートしていた。調べてみると、ロサンゼルスかマンハッタンで一週間以上、一日に一回以上有料上映されていないといけないらしい。どんな劇場で上映されているのかはわからないが、興行的に大ヒットするようなことはまずなさそうだ。
 
そんなマイナージャンルにNetflixが参入したのが『最期の祈り』。Netflixのドキュメンタリーの充実っぷりには感心してきたが、24分ほどの短編で一体どれほどのことが描けるのだろうとお手並み拝見のような気持ちで観た。先に結論を言うと、終末医療の最前線に引きずり込まれ、短編などと侮っていたらとんでもない目に遭う濃密な時間だった。

「死」とは忌むべき悲劇なのかという命題

話を自分自身に寄せて申し訳ないが、筆者は「人が死んで悲しい」という気持ちがよくわからない。わからない、というより、他の人の様子を見たり話したりした限り、その種の感情が極端に少ないらしい。もちろん近しい人に先立たれる悲しみはわかるし、後に残される大事な人を案じる側の気持ちも想像できる。痛いのも苦しいのも極力避けたい。ただし人間は必ず死ぬのだから「死」そのものは予定に折り込み済みの事象でしかないのではないか。
 
悲惨な状況で死ぬのは「悲劇」だけれど、「死」そのものは悲しくもなんともない。『最期の祈り』という邦題の「祈り」の部分に込められたセンチメンタルな感傷は結局は個人がそれぞれに処理すべき事柄に過ぎず、本作に登場する、意識不明の母親を「心臓が動いている限り私のために生きてくれているの」と断言する娘にはサッパリ共感できない。もはや患者本人とは関係なく、家族が落としどころをどこに見つけるかという話でしかないと思うからだ。
 
そんな自分が『最期の祈り』で一番共感したのは、本作が映す医療の現場において「生死を選択すべきは患者本人だ」という前提が共有されていること。特に命を預かる医者たちは、選択の「優先順位」をどうすれば守れるかのと常に自問自答しているのである。

大切なひとの「死」は誰のもの?

本人の意志が確認できればそれでいい。土壇場で気が変わることもあるだろうが、責任を一番負えるのは本人自身なのだから。でも当人が意識不明だったり、正常な判断ができない状態なら近親者の誰かが決めるしかない。本作では、その判断基準が個人の思い入れだったり、信仰する宗教だったり、ケースバイケースであることを客観的に提示している。
 
本作の医師たちは、その判断の手助けをするために事実をありのままに伝えようと心がけつつ、自分たちの意見が患者やその家族に強い影響力をもたらすことも自覚している。理想をいえば、医師が的確に医療を行い、感情面には極力介入せず、選択の余地を出来る限り当事者の裁量に委ねることなのだろうと思う。
 
わずか24分間という時間の制約もあり、取材対象はほぼ2組の家族に絞られている。この2組が選ばれたのはそれぞれに対照的な選択をしたからだろうが、何が正解だったかは結局のところ誰にもわからない。何度問いかけられたところで、その瞬間になって最良の答えを探るしかないのだろう。
 
ただ本作で描かれているような本人の価値観を最優先できる局面は、日本の現実ではどの程度あるのだろうか。“本人の希望”という建前は、その時々の状況や周囲の思惑でいとも簡単に濁ってしまう。自分の「死」を所有することのいかに困難であることか。本作は終末期医療のドキュメンタリーであると同時に、他者の意志をどれだけ尊重できるのかという、価値観の多様性にまつわる映画でもあるのだと感じている。
 
※Netflixで独占配信中

【予告編】

【視聴リンク】
https://www.netflix.com/title/80106307


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